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メシアの伝道

説教要旨(10月22日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 4:12-17
牧師 藤盛勇紀

 メシアの先駆者、洗礼者ヨハネの務めが終わったことを知ったイエス様は、故郷のナザレを離れ、ガリラヤ湖半のカファルナウムに住まわれました。カファルナウムは経済的にも軍事的にも要衝です。徴税人だったマタイも阿漕な仕事をし放題だったでしょう。しかしマタイは、イエス様の移動は預言者が語ったことの成就なのだと言います。「異邦人のガリラヤ」。むかし北イスラエル王国が滅ぼされた時から、この他は民族的・宗教的に混淆状態になります。以来、純粋なユダヤ人と言える人がいなくなり、「異邦人のガリラヤ」、「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」とさえ言われるほどに絶望的な地でした。
 しかし、そこに光が差し込んだ! これはマタイ自身の経験でもありました。皆さんはどうでしょう。暗闇ではなかったですか。十字架の死を遂げたイエスを知り、あなたのために御子を惜しまず死に渡された方があなたの父、「アッバ」と呼べるお方だと知ってからどうですか。それ以前の生活が何不自由ない生活だったとしても、イエスを知り、この方の霊が私の内に住んでいてくださることを知ってから。どんな時でも神を「アッバ」と呼べる、そんな自分となった今から振り返れば、「暗闇の地に住んでいた私に、光が差し込んだ」と言えるのではないでしょうか。ならば、この東京のど真ん中も「異邦人のガリラヤ」でしょう。だからこそ、イエスによって希望を持って生きている人は、この地に出て行くべきなのです。命の光に差し込まれ、神の愛と完全な赦しと自由を知ったのなら。
 深く憐れまれる主は、「暗闇に住む民」を命の光に入れるために、深遠な計画と伝道戦略をもって、その働きを開始されます。そして、この働きのために、主に応えて生きる人々、主と共に恵みを味わって生きる人々が必要なのです。だから主はこの後、弟子たちを招かれます(18節以下)。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼ばれたペトロとアンデレはすぐに網を捨てて従います。ヤコブとヨハネも「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。彼らはもともと洗礼者ヨハネの弟子。そして、大漁の奇跡を経験します(ルカ5:1~11)。その時ペトロはイエスの足元にひれ伏して言いました「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」。この経験の後、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主から招かれます。ただの田舎の漁師、しかも罪人の私をこの方は招いておられる。ペトロたちもマタイも、自ら弟子入りしたのではなく、イエスに招かれたのです。
 「網を捨てて」「舟と父親とを残して」。イエスに対する全面的な信頼です。これは幸いなことであり、何より嬉しく楽しいことです。主に従っても、どんな生活が待っているのか分かりません。しかしこの方なのです。この方の道を歩む。「献身」とも言いますが、献げたら全面的に用いられます。自分の力も経験も、個性や特性、変なクセも。これを知らないことは、空しくもったいないことです。
 主は私たちの罪を赦し、新しい命に生かすために必要なことの全てを、独りで成し遂げられました。しかし、この方とその御業を世の人々に宣べ伝えることは、ご自分が召した人々を用いてなさいます。「神は、宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと、お考えになった」(1コリント1:21)。
 神はわざわざ私たちをお用いになります。手間がかかって効率が悪い。「愚かな手段」とは、私たち自身のことです。使徒パウロは自分を出来損ないだと言いました。出来損ないの私を、神は用いたいのです。
 深いご計画と戦略をもってなさったイエス様の活動の全ては、私たちのためです。ひねくれ切った徴税人、罪人の代表のようなマタイ、取り柄も無く名も無いただの罪人の漁師たち。彼らのために、主は死んでくださり、彼らを弟子とし、神の子とし、神にとってなくてはならない者となさいます。これは、他でもない私たち自身の経験です。