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復活の希望による力

説教要旨(6月25日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 15:29-34
牧師  藤盛勇紀

 「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」「わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」。こんな出来事があったのでしょうか。パウロの人生からすれば不思議はありません。パウロは命を惜しんではいないし、自分を誇ることも一切なく、そんな自分の経験に囚われることも全くありません。パウロがそのように自由に生きられたのはなぜでしょうか。
 「主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇り」と言います。誇りについてパウロは、「だれ一人、神の前で誇ることがないように」「人間を誇ってはなりません」と言い、「誇る者は主を誇れ」と繰り返し言っています。「誇る」は「喜ぶ」でもあります。私たちが何かを誇る時、必ず喜んでいますが、自分を誇っていません。たとえば、自分が信頼しているチームが優勝した時のように。パウロが言う誇りは、「キリスト・イエスに結ばれて」いる事実です。自分は確かにイエスの死に結ばれ、復活の命に与っている。そして、この肉体の死の後には、朽ちることのない体に復活させられる。
 祈祷会ではローマ書を学んでいて、5章に入りました。私たちは信仰によって義とされたが、それで私たちはどんな者になっているのか、その恵みを確認するような箇所です。私たちは「神との間に平和を得て」いると言います。私たちに下されるはずの神の怒りは、十字架のイエスに下された。その死によって、神の怒りは静められ、神はもう私たちに対する怒りを持っておられないのです。
 そして今、私たちはキリストと共に復活させられています。エフェソ書が語るように、私たちはキリストと共に天に座しています(2:4-6)。体の贖いはまだだですが、霊はすでに新しい人となっている。だからパウロは、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(ローマ5:2)と言うのです。
 もし「復活などない」と言うなら、この世での生活にのみ意味を見い出して生きるしかなく、この世に閉じ、真の希望を持てません。現世的・刹那的な生き方をもたらすことになるのは当然です。
 私たちは、何かが上手く行ったり行かなかったり、成功したり失敗したりで、上がったり下がったりします。イエス様の弟子たちもある時、悪霊を追い出そうとしてできませんでした。ところが別の日に成功して有頂天になりました。しかし主は、そのことで喜ぶな、むしろ「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜べ」と言われました(ルカ10:20)。
 あなたの出来・不出来じゃない。あなたの名はすでに天に記されているのだ! あなたはキリストにあって復活し、すでに天に座している。あなたの人生は確かなのだ。いつでもどこでも喜べる。何かを手に入れたかどうかで人生を計っていたら、あなたはその何かに支配されてしまっているではないか。しかしあなたはすでに神に喜ばれている。キリストにあって和解させられたのだ。だからあなたの父は、いつでもどこでも、あなたを迎えてくださっている。あの放蕩息子の父のように(ルカ15章)。あなたは、そういうあなたに、復活させられているのだ! キリストと共に神の子、神の相続人とされているのだ!と聖書は語っているのです。
 だから「復活などない」と考える人がいるということが、パウロには不可解なのです。「神について何も知らない人がいる」とは、極めて厳しい言葉です。「あなたがたを恥じ入らせるため」だと。復活を否定することは「恥じ入る」べきことです。なぜなら「誇り」と「喜び」を失っているからです。誇りとする「主」を失ってしまっているのです。
 しかし主は、何があってもあなたを見失わず、見ておられます。あなたを見て怒っているのではなく、喜んで期待して、あなたを子として見ています。あなたがいつでもどこでも「主よ」「父よ」「アッバ!」と呼ぶことを大いに喜んでおられます。そのような真実な神の子として、復活させられているのです。