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マラナ・タ

説教要旨(8月6日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 16:19-24
牧師  藤盛勇紀

 最後の挨拶の言葉ですが、パウロが記す挨拶は通り一遍の挨拶ではありません。「聖なる口づけによって互いに挨拶をかわしなさい」とありますが、大事なことは「聖なる」です。「聖」とは、区別され、分かたれていること。神のものとしていただいた者たちとして、特別な挨拶をしようというのです。
 すでに何人かの名前を挙げていますが、最後に「アキラとプリスカ」を挙げます。有名な夫婦ですが、まず使徒言行録18章に出てきます。パウロが彼らと出会ったのがコリントでした。彼らはパウロの協力者となり、命がけでパウロを守ったこともありました。パウロがコリントを離れた時、彼らも同行してエフェソまで行きます。当時指導者だったアポロを、この夫婦が再教育したのです。
 パウロは彼らと個人的に親しかったからとか、コリントにいたよしみで挨拶を送っているわけではありません。パウロはローマ書でも長い挨拶の中でこの夫婦の名前を記していますが、そこに名前が挙げられている人々はどんな人々かと言うと、「キリスト・イエスにあって」協力者となった人たちです。名前は挙げられなくても「聖なる者たち一同」です。「キリストにある者」として生き、主のために労苦している人々です。
 この手紙の最後の言葉も、「キリスト・イエスにあって」です。「イエスにある」とリアルに感じながら、様々な人を思い起こしています。今も共にキリスト・イエスにあるとありありと分かる。これが無かったら、どんな立派な言葉も立派な人の名前も、キリスト者としての挨拶としては、形ばかりのつまらないものでしかないでしょう。
 アキラとプリスカの夫婦にしても、彼らが命をかけてパウロを助けたのは、パウロとの親しさからからではありません。そこに生きて働いておられるキリストのためです。「命がけで」は、直訳では「自分の首を差し出し」。
 キリスト者の挨拶は、「キリストのためなら首をかけたっていいとさえ思いますよね」「そうですよねえ」と思い合える者同士の、喜びの共有、確かめ合いです。私たちは弱い人間ですが、それでも思うのです。「主が用いてくださるなら、きっと首を差し出す者とさえしてくださる」「きっとそうだ」と。傍から見たら危ない人たちです。だから普通の挨拶ではないのです。主にある者として、主のための労苦と喜びを知っている者として、その間に流れている、主の命の交わりが確かめられる。まさにキリスト者の挨拶なのです。
 キリストの体である私たちの交わりには、十字架の血潮が注がれ、染み込んでいます。主の血によって生み出された共同体。私たちは、この「聖徒の交わり」を信じています。そして、聖餐に与りながら「私たちは主に死んでいただいた者たちですよね」と、確かめ合う者たちです。聖餐式の制定語で11章の言葉を読みます。「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。すぐにもで主は来られる。この方が私たちのために死なれたのだと。
 パウロはその恵みをリアルに感じながら、「主を愛さない者は、呪われよ」と言ったのです。まだ主を信じていない人や主を愛していない人を呪っているわけではありません。互いに「主にある」「聖なる」挨拶を交わし、確かめ合っているなら、いま主を愛していない人はいませんね、ということです。ここでの「愛す」という言葉は、感情から出る愛です。この方イエス様が好きだということです。復活されたイエス様は、弟子たちが見ている目の前で、天に昇られました(見えなくなった)が、同じ有り様で、見える仕方でまた現れてくださる、と御使いは言いました。主は近いのです。だから、「マラナ・タ(主よ、来てください)」なのです。
 主は、今は見えない仕方でここにおられ、明日にでも見えるかたちで来られる。いや、もしかすると今日かもしれない。だから、「マラナ・タ」と。そのような挨拶が、私たちにも与えられています。