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神が近づいた

説教要旨(9月24日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 3:1-12
牧師 藤盛勇紀

 救い主メシアの到来、その先触れとして洗礼者ヨハネが登場します。自分は「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言ったヨハネは、私の後から、あなたを救うメシアがやって来る、今その時が来たのだと告げます。ヨハネは、それを告げる「声」に徹して消えます。彼はユダヤ人たちを「蝮の子らよ」と呼び、激しい言葉を浴びせます。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな! そして、「悔い改めよ」と。「悔い改め」は、預言者たちが繰り返し語った言葉で言うなら、「立ち帰れ」。ユダヤ人は、我々はアブラハムの子孫だから、もともと神の祝福の中にいる、なぜ帰る必要があるのか、と思っていました。最後に悔い改めの洗礼を受けて形を整えればよいと。
 しかし、洗礼を受けて一丁上がりではない、あなた方に必要なことは「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことだ、とヨハネは語ります。「悔い改め」は「悔いて改める」ことではありません。神が呼びかけて、招いてくださっている、その招きに対して自分を頑なにせず、素直に応えることです。あなたをどこまでも恵もうとしておられる神へときびすを返し、「ありがとうございます」と、恵みをいただくことです。それは感謝であり喜びです。
 ホセア書で主はこう言われます。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(11:8)。神に背を向け、神を捨てたイスラエルであるにもかかわらず、神は憐れみに胸を焼かれると。「どうしてお前を見捨てられようか!」「帰って来い!」と主は叫んでおられます。私たちはこの方のもとに行くのです。悔い改めとは、神ご自身の焼かれるような憐れみに触れることです。何よりも嬉しいことなのです。
 ヨハネは荒れ野で叫びます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」。神の国があなた方に来ている。神の憐れみと恵みがあなた方を支配されるのだ。この恵みの内に生きよ! 砂漠に河が流れ、荒れた大地が柔らかにされて豊かな実をもたらす! だから洗礼者の立つ所は荒れ野なのでしょう。ヨルダン川沿いの地方はむしろ緑豊かな地です。しかし、神が生きて語りかけておられるのに、聞こうとしない世界、主の言葉を聞き入れようとしない人間の頑なな心。「どうせ神なんかいない」と思って生きている人の世。ヨハネはそんな「荒野」で叫ぶのです。荒れ野は、私たち自身。いま私たちが生きている世界です。
 しかし、この荒れ野のただ中で、叫ぶ声がある。もしあなたがその声に聞いたなら、自ら「荒れ野で叫ぶ声」になるはずです。「悔い改め」は単なる心の問題ではない。どうせ私は罪人と卑下してみたり、自分を責めて悔いたりして心を改めてみる。そんなちっぽけなことはではありません。全体的なことです。自分の思い、その向きが変わることです。信頼し安心して、神のものとされて生きる、そういう人生、そんな存在となることです。罪と死に捕らえられた私を憐れんで、胸を焦がしてくださるお方を知って生きるのです。
 私たちの世界は音を立てて崩れ、壊れています。私たち自身も、感謝や喜びから遠ざかった「荒れ野」。しかし神の言葉は、それを問い直すことを求めています。ただし、あなた方が自ら反省し、自分で考え方を改めて自己変革をせよ、ということではありません。あなた方には神の怒りの裁きがある、神の怒りを逃れることはできない。ところが!そんなあなた方が死んで、新しい命に甦って生きる者にしてくださる方が来る! 聖霊と火で洗礼をお授けになる方が、今まさに来ている!とヨハネは言うのです。私は叫んで消える。私の後に来るお方のもとに行けと。
 ヨハネの洗礼は、人間の側の備えの業。しかし、後から来られる主は、ご自身の御名による洗礼を与えます。私たちが罪に死んで、神の命によみがえる洗礼、新しい命への洗礼。人間の業ではなく神の御業です。それをなす方、神ご自身が来ておられる。私たちはただ信頼して、この方に生かされてよいのです。