全生涯続く喜び
説教要旨(4月16日 朝礼拝より)
マルコによる福音書 1:14-15
牧師 小宮一文

イエスさまが公の場に現れて、伝道活動を始められたときの、その第一声ともいうべき最初の言葉をマルコは伝えています。こういう感想は少々素朴すぎるかもしれませんが、このたった二節の言葉に私は救われています。
三年ほど前から今日の聖書に出てくる「神の国」という言葉に心が捕らえられるようになりました。主の祈りの「み国を来らせたまえ」にもある「国」という一言です。この「神の国」「み国」という言葉を直訳すると「神のご支配」「神の統治」といった言葉になります。ですからこの言葉は何か遠い別の世界のことではありません。神がこの世界において、私たちの現実のただなかに打ち立ててくださるものです。
こんなことを考えてみてもいいと思います。悪い為政者の支配する国に生きる国民がいる。その中で「わたしたちの支配者は神さまだけです」という思いに生きるとき、そうやって人を主とするのではなく神を主として生きるとき、その人びとは現実に神の国を生きています。学校でいじめを行う子がいる。その子が「俺に従ってあいつをいじめろ。従わないならお前を全員で仲間外れにしてやる」と脅すとき、それはとても怖いことで子どもにとっては非常に難しいことかもしれませんが、「いや、お前には従わない。僕は神さまに従う。いじめには加わらない」と言うとき、その子どももたしかに神の国を生きています。そのように神の国というのはこの現実のただなかに起こる出来事です。神だけを主として、ほんとうに自由な人間として生きるということです。
そして私が大きな喜びをもって聞かざるをえないのは、イエスさまが公の生涯の初め、伝道の最初に言った言葉が「神の国は近づいた」であるということです。神があなたたちの王として来られた。神の支配は始まった、とイエスさまは告げたのです。神だけを主とし、その自由にあなたたちは生きることができる。あなたたちは自由なのだ、と。
人はいつも何かしらに支配されている生き物です。人が支配者となったり、また自分自身の勝手な思いに自分が支配されることもあります。憂鬱や思いわずらいに支配されます。しかしイエスさまはそれらの支配を打ち破るように「神の支配は始まった」と告げたのです。あなたたちをほんとうに支配するのは父なる神なのだ、と。そしてそこへと私たちを引き上げ、招くようにこう語ります。
「悔い改めて福音を信じなさい」。「悔い改め」という言葉は、心の動きをあらわす言葉として、聖書の中で最も明るく、ポジティブな言葉ではないかと思います。もとの意味は「向きを変える」「方向転換」です。
これは後悔と似ているようでまったく違います。後悔は自分のしたことに、ずっとぐるぐると思いを向けることです。自分を責めて裁く人は、そうすることによって結局は自分の城を手放しません。それは一見すると謙虚なように見えますが、奥底にあるのは罪を小さく見積もり「自分の過ちは自分で処理できるのだから口出しするな」という態度です。わたしの主人はわたしだ。
あるとき改革者のルターは「大胆に罪を犯せ」と言いました。あのルターが「大胆に罪を犯せ」と。しかしその言葉で伝えようとしていることはこういうことです。
「キリストは、あなたが自分で見積もっているような、そんな小さな罪のために死んだのではないのだ。あなたはほんとうはもっと大きなことをしているのにそれに気づいていない。そうやってキリストの十字架を小さくして、あなたの罪すら背負えないような、情けないものにしないでいただきたい。本物の罪人になりなさい。そしてキリストに背負っていただきなさい」。
私たちの生活は善い人から転げ落ちないようにと綱渡りしながら生きるというものではありません。私たちは罪人としてここから出ていきます。しかしイエスさまの十字架に背負われた罪人として、顔をあげて生きていくことができます。とても嬉しいことです。