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神の国は進む

説教要旨(10月29日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 1:21-34
牧師 小宮一文

 私はかつて聖書に出てくる悪魔、悪霊というものを心のどこかで馬鹿にしていました。昔は科学も医学も発達していなかったから精神的な病気になった人をそのように表現しただけだ、と。しかしそういう聖書の読み方をいつからか改めるようになりました。1章の39節にはイエスさまは「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とあります。イエスさまの悪霊追放と伝道は密接不可分のわざでした。
 聖書には「心が頑なになる」という言葉がしばしば出てきます。心が頑なになるとき、それをあとから振り返ってみると、やはり何かに取りつかれていたと思うほかない嫌な感覚があります。しかしそういうとき、イエスさまがやってきて「黙れ。この人から出ていけ」と言って、心をこわばらせる霊を追い出してくれるなら、こんなに嬉しいことはないと思うようになりました。
 イエスさまはほんとうに「黙れ。この人から出ていけ」とおっしゃったのだと思います。心が頑なになるときというのは、無口になるというよりも、むしろ自分の中で言葉が騒々しく飛び交うものではないかと思います。頑なになるとき、私たちはおもてむき無口になります。しかし心の中では騒々しくて仕方がないというのが私たちの実際のことだと思います。そして悪魔、悪霊というのはそういうときにこそ力を発揮します。
 逆説的かもしれませんが、悪魔というのは私たちが頑なになるとき、絶対にそれをいさめたりはしません。「きみのそういうところはよくないんじゃないか」などということは悪魔はけっして言いません。むしろ私たちの心がもっと頑なになっていくことを喜んで、それを応援するのが悪魔です。「お前が100%正しい。間違っているのはあいつのほうだ。お前こそが正義なのだから相手を正してやれ。さあ正義をもってどんどん裁け」。こういう誘惑は苦しいものです。頑なになるとき、自分をいさめるような言葉よりも、「お前は正しい。相手が間違っている」という言葉のほうがどうしても心地良いからです。
 そういうとき、神さまが私たちの生活の中に入って来て「黙れ。この人から出ていけ」と言って悪霊を追い出してくださるなら、やはりこのことは私たちにとって救いであると思います。イエスさまにとって悪霊追放と伝道は切り離すことのできないひとつのことでした。ではイエスさまが方々の町をまわって何を伝えたのかというと、それはたったひとつのことであって「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。そしてこの神の国は直訳すると「神の支配」という言葉になります。
 支配という言葉にアレルギーを感じる人もいると思います。しかし支配という言葉でなければ結局聖書が「あなたの主はだれか」と問うていることをうやむやにします。
 自分は何にも支配されないと思う人に限って、実は何かに支配されているということはよくあると思います。自分は何にも支配されないと思いつつも、実は意見の強い夫であったり家族に支配されている。自分は何にも支配されないと思いつつも、この世の価値観によって自分や他の人の人生を測ってしまっている。竹森満佐一という説教者は人情による支配もあると言います。「あなたのことをこんなに思っている」と良いことをしてくれる人も、実はその人を自分にしばりつけたくてそうしているだけのこともある。
 しかしイエスさまのご支配というのはそのどれでもなかったように思います。イエスさまは弟子たちを恫喝して従わせるということはけっしてなさいませんでした。俺に従わないとお前の立つ瀬はなくなるぞ、なんてことは言いませんでした。また人情による支配もイエスさまはしませんでした。お前たちのことはこんなに愛して気にかけてやったのだから恩を返せ、などということは言いませんでした。「すべてのものをあたえしすえ、死のほかなにもむくいられなかった」方が、私たちの王であり主です。