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希望への退避

説教要旨(9月10日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 2:13-23
牧師  藤盛勇紀

 ベツレヘムの村で初子を産んだマリアとヨセフ。これからという時、ヘロデ王の残忍さが剥き出しになります。ベツレヘムでの大量幼児虐殺。この話にどんな救いがあり、どんな希望があるのか。貧しい夫婦はエジプトへ逃れますが、旅費や滞在費はどうするのか? そこに、あの東方の学者たちが献げた宝物がありました。予め神が備えておられたのです。イエス様の一家は、自分で得たのでない、自分で獲得したものではない、予め神が備えてくださったものによって生きたのです。
 私たちもそうです。誰もが裸で母の胎を出ました。なのに、いつの間にか多くのものが与えられています。無に等しい者だったのに生かされ、豊かにされている。私たちはそうした経験によって《神が備えていてくださった》という恵みと祝福を味わい、神とその恵みを証ししていくのでしょう。イスラエルもまさに、そういう民でした(申命記6:10-12)。
 「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア11:1)。出エジプトを想起しています。出エジプトの出来事は、実体を予め指し示す型、タイプ、モデルでした。実体・本体は、神が御子イエスを呼び出した、この出来事なのです。私たちにも、エジプトに象徴される悩みや苦難、身に迫る驚異や迫害の経験があります。しかし神は、そこから私たちを呼び出すことのできるお方です。
 ベツレヘムとその周辺一帯で、母親たちが泣き叫びました。二度と子供たちと会えなくなる嘆きは、エレミヤ31:15で語られたことと重なることをマタイは示します。ラケルはヤコブ(イスラエル)の妻であり、ユダヤ人の母の象徴ですが、ここでも、いったいどんな希望があり得るのかと思わされます。
 エレミヤはラマでの嘆きを預言した後で、後の時代にはユダヤ人がバビロンから解放されて故郷に帰るという預言を語っています。ラマでの嘆き悲しみの叫びは、遠い先にある希望を指し示すのです。ベツレヘムのこの惨状と嘆きも、ただ絶望だけで終わるのでなく、やがてメシアによって全人類が罪と死の縄目から解放され、真の喜びに与る、その道への序曲となっている。そう受け止めるのです。
 イエスは私たちを解放するメシア、キリストだと信じる者は、神が備える希望へと開かれます。この地上のどんな悲しみも必ず希望につながる。その道が開けると知っています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)とある通りです。
 ヘロデ大王の死後ユダヤを継承したアルケラオは、ヘロデ以上に残忍な王でした。イエス様の一家は、ユダヤではなくガリラヤのナザレに帰ります。これも預言の成就、救いのための神の備えだとマタイは語ります。「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言はありませんし、「ナザレ」の名前さえありません。しかし、多くの預言者たちが語っていることを総合すれば、メシアは「ナザレの人」と呼ばれるような生涯を送る、ということです。
 北のガリラヤ地方は、当時のユダヤ人から蔑まれていました。辺境の地のナザレ。イエス様はそこに住み、みずぼらしい貧しさの中で、へりくだった生き方をされた。それが「彼はナザレの人と呼ばれる」と表されたのです。
 私たちにも、日の当たらないような歩みがあるかもしれない。しかしその中で、神が備えられた道を見て行くのです。イエス様は自分を与え尽くし、その挙げ句、人々から憎まれ蔑まれ、愛する者たちから見捨てられて十字架を背負います。しかしそこでイエス様は「父よ、彼らをお赦しください」と祈られ、父なる神はこの御子を高く上げられました。
 低くなることを通って、神の完全な平安と喜びと栄光に与る。そう信じます。私たちはイエスに結ばれて神の子だからです。神はこの私を子として慈しんでおられ、この私が愛おしくてならない、そういうお方なのだと。私たちはそんな生き方へと解放されています。どこにあっても、インマヌエルの主キリストの内にあって、希望があるのです。