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神の前に一人で立つ

説教要旨(10月8日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 2:41-52
牧師 小宮一文

 12歳のイエスさまが神殿に入られたという出来事をルカは深く心に留めて書いたのだと思います。12歳という年齢は特別な意味を持っていました。当時、男子は12歳になると律法に対して責任を持つ成人として見なされました。
 このことは私たちにも大きな意味を持っていると思います。成人するとは神さまが「わたしはこれから掟を通して、お前という一人の人間と向き合う」「お前が罪を犯すとき、わたしは一人の人間としてのお前にそれを問う」ということです。しかしそれは大人である者にとって誇れることを意味しません。
 十戒の掟のひとつは「貪るな」と命じています。「貪るな」と言うとき、お金などを貪ることもあるでしょうが、実際そういうことはあまりないと思います。しかし「自分はこんなに優れた人間なのだ」と自分の存在を貪るように示すことは生活の小さなところにも起こります。「自分はこんなに努力しているが、あいつはだめだ」と。
 宗教改革者のルターは、罪をひとことで「自己追求」だと言いました。そして自己追求の生き方がもたらす苦しみや悲惨さが大きくなるのは、子どもよりもむしろ大人になってからです。
 「12歳」という言葉はイエスさまが惨めでしかない大人の世界に入って来られたということです。罪を問われない、親とセットの存在ではなく、むしろ最後は罪を問われる人間として、私たちと同じところに立ってくださったということです。裁くためではなく、同情するためです。「自分を貪り追い求めて生きるのは苦しいだろう?わたしはそんなあなたの心を知っている。だからそこから離れて父のもとに帰ろう」と。
 しかしマリアとヨセフはキリストが罪人の世界にいよいよ入って来られたということがこのとき分かりませんでした。原文では「なんてことをしてくれたのです」とマリアが言う前に、マリアは「子よ」と呼びかけています。これは大事なことを含んでいます。
 マリアはイエスが自分たちの力によって生まれたのではないということを誰よりもよく知っていたはずです。しかしマリアはイエスさまが聖霊によって宿ったことを忘れて、イエスさまを自分の子どもにしてしまいました。親であるわたしたちよりも優先して従わなければならないものがあるのか、あなたはわたしたちの内にとどまっていればいいのだ、と。
 それに対してイエスさまは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前です」と答えました。この「当たり前」という言葉は「そうしなければならない」「そう定められている」といった強い意味があります。このイエスさまの言葉を「わたしはわたしの父の仕事に当たらなければならない、そう定められている」と言い換えることもできます。
 そしてこの「当たり前」という言葉が使われている別の言葉があります。マタイによる福音書16章21節です。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。
 ルカは十字架に向かおうとするイエスさまの言葉を聞いたとき、神殿での言葉を思い出したに違いないと思います。「わたしは父の仕事をしなければならない、必ず」。
 イエスさまがもしその父なる神さまの仕事を放棄してしまったら、私たちは罪人として神から見捨てられるほかありませんでした。私たちは神さまの前に一人の大人として罪を問われるからです。しかしイエスさまは罪を問われる大人となって、私たちの罪を代わりに引き受ける道を選んでくださいました。この神殿での出来事はイエスさまの召命物語とも言うべき出来事です。
 すべての人の罪と死の支配を終わらせるためにわたしは来たのだ。母よ、あなたもそれを妨げてはならない。そしてその道を受け入れなさい、とイエスさまは言っているのです。