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見ゆる希望は希望にあらず

説教要旨(4月8日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 8:18-25
伝道師 山下瑞音

 私たちは、自然という言葉を聞くと、すぐに「自然は美しい」というフレーズや「自然は豊かである」という言葉を連想します。確かに、自然は美しくて素晴らしいものです。しかし自然は、美しさや豊かさという言葉だけでは表現することが出来ないのもまた事実です。今日の聖書個所に出てくる「虚無」という言葉は、もとの言葉では「実を結ばない状態」という意味のある言葉です。まさに人間の営みや造り上げてきたものを一瞬で無駄にする力が、自然にはあります。そしてあらゆる生き物が命を削り、日々戦い続けながら生存競争を繰り広げている。自然の中には平等や弱い者へのいたわりなどというものはありません。そのなかで、呻きながら苦しんでいるのが、私たちの世界の姿なのです。しかし、苦しんでいるのは被造物だけではない。実は私たちも同じように苦しんでいて、救いを待ち望んでいるのだということがここでは書かれているのです。その証拠に、クリスチャンだからと言って、あらゆる人生の苦しみから解放されるわけではありません。クリスチャンであっても、日々の生活の中で苦しい状況に追い込まれることはあります。そして何よりも、クリスチャンであってもいずれは必ず死ぬのです。
 しかし私たちは苦しんで終わるのではありません。私たちには、希望が与えられている。そしてその希望によって私たちは救われているのだというのです。ではその希望とは一体何でしょうか。それは、虚無、つまり結局すべてが無駄になってしまうような状況から解放されるということ。私たちは最後に消えてなくなってしまうのではなくて、命をつなぐことが出来るようになるということです。そしてこの希望が本当なのだということが、あのイースターの朝の出来事によって世界中に示されたのです。先週、私たちはイースターの礼拝をささげてイエス様が復活なさったことをお祝いいたしました。イエス様が復活なさったということは、人は死んで終わるのではないという神様の約束の何よりの証拠です。そしてその約束を信じることで、私たちは今どんなに苦しいことが起こったとしても、どんなにつらいことや悲しいことがあったとしても、喜びながら生きてゆくことが出来るのだということを、今日の聖書個所は言っています。
 さらに、そんな私たちが、この世界の被造物すべてをも救うのだということが、ここでは書かれています。19節の神の子供たちというのは、まさに今ここにいる私たちのことです。創世記を読んでみると、そもそもこの世界が虚無に屈服させられているのは、人間に責任があるのだということが書かれています。本当は人間がこの世界を正しく支配するべきだったのに、肝心の人間が罪を犯すことによって、世界全体がおかしくなってしまったのですしかしこれは逆を言うと、人間が救われれば、世界全体が救われるのだということになります。だから、今ここにいる私たちによって、つまり私たちが救われて希望をもって生きることによって、この世界全体が神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかることが出来るようになるのだと、パウロは言っています。
 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」私たちの今の苦しみと比べることが出来ないほど大きな恵みが、将来にはあるのです。「見えるものに対する希望は希望ではありません。……わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」私たちの希望は目に見えないけれども、しかし目に見えないからこそ私たちはその希望を確信して歩んでゆくことが出来るのだというこの恵みを、ともに分かち合いたいと思います。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ