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恵みが響き合う

説教要旨(8月19日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 4:25-32
牧師 藤盛勇紀

 「怒ることがあっても、…日が暮れるまで怒ったままでいるな」、「盗みを働いていた者は、今からは盗んではならない」、「悪い言葉を一切口にしてはならない」。当たり前のことが言われていますが、パウロの勧めは、「怒るな」「盗むな」「悪い言葉を吐くな」というより、「怒ったままでいるな」つまり「赦せ」、盗むよりも「困っている人に分け与えるようにしなさい」、悪い言葉ではなく、「人を造り上げるのに役立つ言葉を、語りなさい」と言いたいのです。これをキリスト者に言っているわけですから、「互いに」一人ひとりがそう生きよというのです。
 ここで具体的な勧めがいくつもありますが、誰もが深い関心を持つのは、最後の「赦し合いなさい」でしょう。主の祈りでも毎日祈りますが、おそらく誰でも「私は本当に人を赦せるだろうか」「赦しているだろうか」と不安になったり、赦すことは何と難しいことかと感じています。人を赦せるようになることは、遠くの目標のように感じているのです。しかし、「赦し」は遠い目標ではありません。神からの平安と自由と解放に与って生きるために、「赦し」はむしろスタートなのです。
 一番大きな困難は私たち自身の「感情」です。傷つけられた、という被害者的感情。すると、その感情が癒されるのは相手次第となります。私たちは二者択一を迫られています。《古い自分》が自分の感情を抑制し、なんとか癒そうと、あれこれ心理的操作をして、延々と魂をやりくりして生きるのか。それとも、御言葉が語っている真理を受け入れて、古い私はすでにキリストと共に十字架につけられて終わった、本当の私はすでに新しい命へと新しく創造され、天に属する者なのだから、傷ついたり損なわれたり、病んだりすることはない、神の命に安息し、健やかな命に与っている、と認めて生きるのか、です。自分を立てて生きるのか、それとも自分を捨て、主のものとされた自分を生きるのか。
 イエス様が言われたように、自分を捨てるなら、自分を得ます。《傷ついた自分の感情》は、自分でどうにかする必要はありません。多くの人は、「赦す」とは、自分の感情で赦すことだと思っています。しかし、自分の傷ついた魂、感情を癒すのは自分ではなく、人でもなく、主の霊です。自分を手放すならば、いつの間にか聖霊が私の魂を癒してくださっていることを知るのです。あなたを癒すのは、あなた自身でもなく、人でもない、自分や他人にしがみつくな、と主は言われるのです。
 「赦し」は、「主の御言葉であるがゆえに」赦すと決めることです。自分の感情は関係ありません。あとは主ご自身が働いてくださいます。主が生きておられるのですから、必要なことは、あなたがあなた自身から解放されて、主によって生かされることです。
 だから、私たちを「造り上げる」言葉を語ることが大事なのです。私たちは生まれて以来、人の言葉を聞いて造り上げられています。しかし、私たちを真に造り上げるのは、人の言葉でなく、万物を存在させ、命の源である《神の言葉》であるべきです。
 「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。「赦し合い」ですから、私たち一人ひとりが神の赦しに自ら与ること、一人ひとりが神の愛を知っているということです。
 イエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:12)と言われました。自分で何とか愛するのでなく、主の愛に浸るのです。すると、主の愛がなぜか自分の腹から流れ出るように、「赦しがたい」と思っていたことが赦せている。これは神の業です。だからパウロは言います、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」。私たちは互いに、一人ひとりがキリストの一部です。だから、「互いに、主の愛にとどまろう」と、互いに恵みの御言葉を響かせ合うのです。