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我らは神の住まい

説教要旨(5月27日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 2:19-22
牧師 藤盛勇紀 

 この第2章は、「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」という言葉で始まりました。私たちは神との関係が切れてしまったために、自分の存在も命も、その意味も目的も分からずに、失われた者でした。神との関係で霊的に死んで、ただの肉なるものとして生きていた、だから「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」と。この神との「遠さ」が「異邦人」という言葉で象徴されていました。
 しかし、そんな異邦人だった私たちは、「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」だというのです。私たちは天に本国を持つ者として、この世では寄留者・旅ですが、ここでは、世になじまない「よそ者」「根無し草」的な意味で言われています。そうした感覚は、誰でも感じさせられているのではないでしょうか。それで自分の居場所や行き先を求め続けて止まない故郷喪失者なのです。
 先日、夏目漱石自筆のハガキが見つかったとのニュースが伝えられました。漱石が英国留学中に友人に宛てた絵はがきで、「僕ハ独リボツチデ淋イヨ」と、異国の地で文字通り異邦人とされている者の率直な思いを打ち明けています。聖書は、そうした神から失われた人間の、根本的な条件を「異邦人」とか「寄留者」という言葉で表現したわけです。
 しかし、「しかし、今や」と言うのです。あなたがたは以前はそのような「よそよそしい異邦人」だった。所在なく、どこから来てどこへ行くのかも分からない、失われて漂う根無し草だった。しかし今や、「近い者となった」と。
 それで、「従って」なのです。したがって「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもない」。異国の地で「僕は独りぼっちで淋いよ」と嘆く者ではない。ではどういう者なのか、「聖なる民に属する者、神の家族」、神のロイヤル・ファミリーなのだ。
 それは「使徒や預言者という土台の上に建てられている」とあります。私たちが神の家族とされたのは根拠がある。それは「使徒や預言者という土台」なのです。それは聖書全体でもあります。聖書は、神が御子イエスを世に与えてしまわれたことを告げます。このお方の血によって、神と人とを隔てていた隔ての壁は、すでに取り除かれた。だから、「そのかなめ石はキリスト・イエス」なのです。「かなめ石」は建物を構成する石全体を支えます。全てはキリスト・イエスにかかり、私たちはこの方に結ばれて一つとされ、「神の家族」とされています。
 ここでは、神殿という建物のイメージで語られていますが、この「神殿」は、異邦人は絶対に入れない「聖所」を表す言葉です。しかし、主イエスが十字架で血を流して死なれた時、至聖所とその外を隔てていた幕が上から下まで真っ二つに裂けました。神の御子の血によるならば、私たちは誰でも「御父に近づくことができる」ようにされたのです。さらに、私たち自身が神殿そのもの、至聖所そのものとされ、私たちの内に神御自身が住まわれます。それで私たちは、キリストに結ばれて共に建てられ、「神の住まい」となるのです。
 私たちが神の神殿、神の住まいです。 私たちを通して、神に近づくことができる、神にお会いすることができる、と言ってもよいのです。ここでは、そのように「成長する」のだと言われていますから、私たちキリスト者、教会は、このような「神の住まい」とさせていだく歩みを、実地に、実際に経験していき、主との親しい交わりを持ちながら生きるのです。
 主イエスは「インマヌエル」とも呼ばれます。つまり「神は我々と共にいます」。この恵みの事実をこの世に現すのが、他でもない私たち「神の家族」、神の王子・王女たちです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ