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神の愛に留まる

説教要旨(9月2日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 5:1-5
牧師 藤盛勇紀

 「神に倣う者となりなさい」とあります。そんなことできるのでしょうか? しかし「あなたがたは神に愛されている子供ですから」とあり、キリストが私たちを愛して御自分を献げてくださったのだから、その「愛によって(愛の内を)歩みなさい」とあります。ですから、「神に倣う」というのは、神とキリストの愛の内を歩んで、神の愛を映すように生きることでしょう。
 ここでの「愛」はアガペー、神の愛です。人間の愛とは違います。人間の内にはこの愛はなかったし、生まれながらの人間はこの愛を知らなかったのです。イエス様は、あの最後の晩餐の夜、長い祈りをなさいました。その最後の言葉はこうです、「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしの彼らの内にいるようになるためです」(ヨハネ17:26)。この祈りの中でイエス様が繰り返し言われたことは、《父と御子の交わりの内に、弟子たち(私たち)をおらせる》ということです。そのためにイエス様は来られ、十字架で死なれたのです。
 「愛は神から出るもので」「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:7,10)とあります。今日の箇所にもその愛が語られています、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」と。
 ローマの信徒への手紙の5章にもこう言われています、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。この言葉の直前に、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」とあるように、誰かのため何かのために自分の命を捨てる人はいます。しかし、キリストは「罪人のため」に死なれた、そこに「愛」が示されたというのです。神から離れ、神を侮辱し、恵みを踏みにじるような者のために命を捨ててくださった。罪人が神の恵みを受け入れる見込みも保証もない、「にもかかわらず」命を捨ててしまわれた。ここに神の愛が現されているのではないでしょうか。
 「神の愛」は、人間に全く依存しないのです。私がどうであろうと、あなたがどうであろうと関係ないのです。だからこそ、私はこのお方に安心して委ねることができます。私はこのお方のものとされて本当に良かった、と思えるのです。もうどんなことがあっても、キリストに結ばれた者は罪に定められることはないし、天にあるものも地にあるものも、どんなものも、決して神の愛から私たちを引き話すことはできないのです(ローマ8:35~39)。
 キリストに結ばれた者も、なお罪を犯しますし、辛い経験もあります。しかし神の罰や呪いなどは全く考えなくてよいのです。なぜなら、私の上に降るべき呪いは全て、いけにえとなられた主イエスの上に下されたからです。だから、キリストの十字架は私の平安なのです。
 私はそのように神に愛された子であり、神から生まれた者、神の尊い作品で、神の愛子です。だから今も後も、私の人生の終わりも「よし」とされている、それを知っています。神は私を存在させてくださっただけでなくて、神の子として神の愛を味わって生きるよう生かしてくださっています。私の人生がどんな人生になっても、「これでいいのだ」と言える。そのように神の愛を味わう人生を作ってくださいます。その意味で、私は《神の映し》です。その真実を思うと嬉しいのです。誰が何と言おうと、そうです。「神に倣う者」は、神の愛の内を歩み、神に感謝し賛美して「感謝を表す」、嬉しい者なのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ