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人間の不義と神の愛

説教要旨(3月3日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 1:18-23
牧師 藤盛勇紀

 「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」。この「神の怒り」のもとで見るならば、人間の怒りは不完全で罪に汚れ、いわゆる「義憤」も正義の衝突を招きます。真実のない怒りは、自己中心性と自己正当性の爆発でしょう。
 神は愛です。《神の愛》と《神の怒り》は表裏一体。私たちの向きによって、神の愛の暖かな輝きを見るか、神の怒りの鋭い光を見るのかが変わります。私たちはその両方を知らなければなりません。「神の慈しみと厳しさを考えなさい」とあります(11:22)。両方を知らないままでは、神の慈しみの深さ、愛の深さが分からないのです。親の厳しさとぶつからなければ、その懐の深さもわからないのではないでしょうか。
 真実なる神は、私たちを捕らえて決して放し給わない。人間は神を捨て、見限り、侮る。にもかかわらず、神は決して、どんなことがあっても、お見捨てにならない。「捨てるのではない、救うのだ!」「滅ぼすのではなく、生かすのだ!」。ここに、神の怒りの響きがないでしょうか。
 神に対して罪人である私たち、神の御前に不義なる人間を、神はなんと義としてくださる。だから私たちは「どうせ人間は不義な罪人だ」と開き直ることができません。私たちは救われてもなお罪を犯します。だから、神の怒りを知らない者のようには、神の愛に甘えることはできません。しかし、私たちが本当に甘えてよいのは神のみです。神だけが私たちの全てを知っておられるからです。「こんなことを人に知られたら、明日から顔を合わせることもできない」と思われることも全てです。全て知られたら、もう人前には出られない。しかし、神の御前にならば出られるのです。
 パウロは、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5:20)と言います。不思議な言葉です。だから続けてこう言います、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない」(6:1)。
 「罪が増したところに、恵みがいっそう満ちあふれた」。確かにそうなのです。神の愛の恐るべき深さです。神の義はなんと、不義なる者を義とする。この神の愛の不思議なまでの深さ、罪人を赦す恐ろしいまでの神の決意の堅さ、恵みの深さを私たちはどこで知るのでしょうか。
 それは、私たちが一切を知られた上で、赦されて神に受け入れられるために、神が最も大切な独り子を人間に与えてしまわれた事実です。不義な私たちを義とし、罪人を神の子とするために、神は惜しみなく最後のカードを切ってしまわれたのです。
 なのに人間は、「不義によって真理の働きを妨げる」。人間は、神に対する不義の態度で応える。真理を知りながら、真理を妨げるようにしか生きられない。人間は神を無視し、神をないがしろにする不義の手をもって真理を掴み、コントロールしようとする。だから必ず誤ります。そこに神の怒りが現されているのではなでしょうか。
 だから私たちは、神の怒りのもとで、神のお叱りを知らなければなりません。子供を本当に叱ることができるのは、本当の親です。人間を本当に叱ることができるのは、私たちを本当に生んで、真実な子としてくださる、信実な父なる神だけです。
 だから、神の怒りに触れた時、逃げ出す必要はありません。信頼し安心して神の懐に飛び込めばよいのです。神の怒りは、私たちを滅ぼす怒りではありません。むしろ、滅びの道に逸れていく子に、「そっちじゃない!こっちだ!」と叫ぶ真の父の、《滅びに対する怒り》なのです。罪に対する神の怒りは、罪なき御子イエスの十字架で炸裂しました。この十字架の下で、私たちは神の義の広さ、愛の深さに触れるのです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ