ホーム | 説教 | 説教(2018年度) | 新しい人を着る

新しい人を着る

説教要旨(8月12日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 4:17-24
牧師 藤盛勇紀

 今日の御言葉の最後に、「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とありますが、この訳はかなりの意訳です。今日の箇所はまるで、「ふしだらな生活をやめて、清く正しい生活を送れ」と言っているように聞こえます。しかし、清く正し生活をせよと命じたり、求めたりはしていません。そうではなく、キリストに結ばれた私たちは何を知ったのか、私たちはどういう者とされたのか、つまり私たちの根本的なアイデンティティーを語っているのです。私たちは、「古い人を脱ぎ捨て」、「新しい人を身につけ」たのだ、それがイエスにある真理だというのです。
 ですから、「清く正しく生活をしなければいけない」などといった、道徳のお題目のようなことではなく、《キリストにある命》のことを語っているのです。キリスト者は、「古い人」を脱いで「新しい人」を着た者です。しかも、その「新しい人」とは、神による《新しい創造》です。
 パウロは、このイエスにある真理に心を向けようとしています。ヘブライ人への手紙が、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走ろう、と勧めている言葉を思い起こさせます。私たちは、自分が見つめているもの似てきます。ヨハネの手紙一3:2に、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」とあります。
 私たちは「今既に神の子」です。霊によって生まれた神の子。しかし、肉体をもってこの世を歩んでいるので、まだ完成されていません。それで、ここでパウロが言うような、《異邦人のように生きるのか、キリストにあって、新しい人として生きるのか》と常に問われることになります。
 「新しい人」は、パウロが一貫して強調する真理の一つです。「古い人」とは、ここでは「異邦人」という言葉に代表されていますが、神から離れて霊的な命を失った人、すなわちアダム以来の全ての人間です。人は神から離れて、つまり「罪」によって、死ぬべき存在となりました。そこから逃れられる人はいせん。しかし神は、この私たちの「古い人」をキリストと共に十字架につけてくださったのです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ6:6)。
 私たちの内の「古い自分」は、十字架で終わりにさせられ、神は霊によって私たちを新しく生まれさせてくださいました。《罪と死の法則》から解放されて、《命をもたらす霊の法則》に入れられたのです。
 ただし、私たちの体はアダム以来の古い創造のもので、ここに刻み込まれた生き方(「肉」と呼ばれる)があります。そこで、私たちの魂は、「罪と死の法則」に乗って「肉の思い」に従うのか、それとも、「命の霊の法則」に乗って、神の霊によって魂を書き換えていただくのか、それを私たち自身が選択していくのです。もし、「肉の思い」に乗ってしまえば、罪が私たちの体を支配し、コントロールすることになります。
 そこでパウロは言うのです。私たちはすでに「古い人を脱ぎ捨てた」ではないか。そして「新しい人を着た」ではないか。その真理を、キリストにあって知ったではないかと。これらは全て神がなしてくださったことです。
 私たちは神による新創造、神の子です。神は、私たちを通してご自身を現したいのです。あなたの祈りに応えてあなたを用い、あなたを通して天のものをこの地上に現したい。だから私たちも、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ