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新しい人間の創造

説教要旨(5月20日 ペンテコステ礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 2:14-22
牧師 藤盛勇紀 

 「キリストはわたしたちの平和であり」、キリストは「平和を実現し」「敵意を滅ぼされました」。これは、イスラエルと異邦人の和解の話ではなく、神と人間との関係の問題です。民族関係、国家間のレベルでも平和が実現されることは重要な問題ですが、そのレベルの平和が実現していても、そこに生きる私たち自身が平和(平安)の内に生きているかどうかは別問題です。
 パウロは言いました、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)。平和とは、この「神との間の」平安です。そのような平和を妨げるのは、憎しみや争いではありません。「敵意という隔ての壁」とは何のことでしょうか? 「(キリストは)壁を取壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とあるように、《律法》のことです。
 神の言葉「律法」は、イスラエル人の誇りでした。「自分たちは、律法を持たない異邦人とは違うのだ」と。ところが、その律法の要求することを行えず、律法によって神との距離を思い知らされることになりました。その意味で、律法は「隔ての壁」となったのです。
 律法自体は良いものですが、人間の側に罪があるためにそれを行うことができず、行えないから神に近づきがたくなる、それで、神と「よそよそしい関係」となる。こうして、良いものであるはずの律法が人間の罪を暴くこととなり、神に近づくことを決定的に妨げたのです。
 しかし、隔ての壁としての律法は廃棄された、壁は破壊されたというのです。それは、「キリストの血によって」「十字架によって」です。すなわち、神が全て、完全に、一方的にしてくださった「恵みによる」のだと。これは神から差し出された和解です。
 キリストが「二つのものを一つにし」というのも、神との関係のレベルの話です。「両者を一つの体とし」た、すなわち「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げ」たと言います。
 キリストにある平安、神との和解とは、《新しい人に造られること》です。これは新創造。キリストにおいて《新しい人類》が造られたのです。だから、キリストは「最後のアダム」と言われ、「第二の人」と言われます。アダムに連なる全ての人間は、罪の結果としての死に定められていますが、それは十字架において《終わり》にされています。しかしキリストに結ばれる者は「第二の人」新人類。「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」。
 この事実を私たちの内にもたらしてくださるのが主の霊、聖霊です。聖霊は私たち自身にキリストを証ししてくださいます。この「一つの霊」によって「新しい人」とされた私たちは、「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」です。
 いわゆる「人類みな兄弟」、仲良くやりましょうということではありません。「神の家族」とは、霊的に新しく生まれた者、神から生まれた者たちです。アダムに属する者ではなく、神に属する新人類なのです。神の家に生まれた者だから、「天のあらゆる霊的な祝福で満たされた」(3)とパウロは最初に言ったのです。キリストに結ばれて、私たちは王子・王女です。だから天のもの主のものは、私たちのものです。この祝福の内に生きることこそ真の平安であり、人間のレベルの平和の、真の基礎なのです。
 箴言10:22にこうあります、「人間を豊かにするものは主の祝福。人間の労苦は何も加えることはできない」。人間の労苦、人間が自分で獲得するものでは、とうてい人間の根底にある飢え渇きは癒されません。人間を豊かにするものは主の祝福、そこに生きるのが真の平安です。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ