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自由という転落

説教要旨(3月10日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 1:20-32
牧師 藤盛勇紀

 ある女子高生が書いた「自由になるための束縛を求めて」という論文の最後は、こういう言葉で締めくくられていました。「私は人間とは生まれながらに束縛を持つものだと思う。人は完全な『自由』に耐えられるほど強い存在ではない。だから自分を一番自由にしてくれる束縛、それを探していけばいいのだ。それを見つけて人は自由へと飛翔していくのだから」。
 この論文の中に、「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの有名な言葉が引用されています。サルトル自身は神を認めませんが、こう言います。「神を信じないわれわれは、自分の行いを正当化する価値や命令を、もはや見いだすことはできない」と言います。「神無し」で生きるとすれば、全くの孤独と絶望だと認めて生きるしかないというのです。
 その高校生は、現代の人間の姿を見て、「自由を求め、柵を壊していくうちにどうしようもない不自由を感じるとは何という矛盾、何という皮肉だろう」と言います。この転倒、倒錯は人間だけにあるものです。動物は自由の上ではなく自然の上に生きているので「責任」は問われない。人間は自由があるから責任が問われる。しかしその自由の上で転倒し、倒錯し、転落する。
 この聖書の箇所で語られていることも、の問題です。ユダヤ人は神から律法という「束縛」が与えられ、神に「捕らえられた民」ですが、私たち異邦人は「手放された民」です。その自由は、24節と26節では「まかせられた」と言われています。28節の「渡され」という言葉も同じ言葉です。神によって《放任》された人間は、真の神を認めることをせず、自分が神になるか、神を造り出します。ここで言われる偶像礼拝の問題です。
 「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、…」。何やら現代の人間の姿を言い当てているようにも聞こえます。なぜ人間は男あるいは女として生きるのでしょか? 神がいないなら、人間がどう生きようが人間の勝手です。神さえ造る人間が、人間を勝手に造るとしても、誰がそれを止められますか?
 人は「神のかたち」に、神のイメージに造られたと聖書は言います。それはすなわち「男と女に造られた」というのです。神のイメージは「交わり」であり、愛と信頼のある応答関係です。神は《ひとり》ですが、《独りぼっち》の独りではなく、ご自身の内に交わりを持っています。その神の写しとして人間は造られ、男と女のように互いに違う者たちが、互いの写しのように交わりをもって生き、主なる神の愛と豊かさを映し出すのです。
 哲学者のサルトルは神を認めませんでしたが、人間の自由を「刑罰」だと捉えるセンスがありました。人間の自由の中に、聖書の言う「裁き」を嗅ぎ取り、そこに人間の不安や絶望を見たのです。
 あの高校生が「人は《完全な自由》に耐えられるほど強い存在ではない。だから自分を一番自由にしてくれる束縛、それを探していけばいいのだ」と言ったように、人間は《自由という刑罰》の中で、かえって神を想うのではないでしょうか。
 幼子は自分の手が親の手から離れた瞬間、親の手をまさぐります。人間は神の御手から自分で手を離した者ですが、「手放しの自由」には耐えられません。「自由だ」と言いながら、実は転落していく自分に恐れ感じて、神の手をまさぐっているのです。
 神は憐れみ深い方です。自分から神を離れた者に、「お前自身の罪のせいだろ。勝手にどこまでも落ちてしまえ」とは言われません。むしろ、転落して行く者に、怒りさえ示して「そっちではない!」「生きよ!」と手を伸ばしておられるのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ