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霊による賛歌

説教要旨(9月23日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 5:15-20
牧師 藤盛勇紀

 「細かく気を配って歩みなさい」とありますが、気配り屋になれということではありません。いかに歩むか、「歩み方」に気を遣えということです。キリスト者固有の歩み方があるからです。それで、「主の御心が何であるかを悟りなさい」というのですが、「悟る」というのは、主の御心が私の心の内に一つとなってストンと落ちる、というイメージの言葉です。「ああ主よ、そうですか」と。この悟り・理解は、人の理性だけでは生じません。主の御心と触れ合うことだからです。8節で「あなた方は、…今は主に結ばれて光となっています」と言われていたように、私はすでに主に結ばれて「新しい人」となっている、と理解することなのです。イエス様も「あなた方は世の光だ」と言われました。「私はすでに光」、このことが分かって歩むことだというのです。ところが、それをキリスト者自身がなかなか悟らず理解せず、霊的な潤いを失って、干からびているのではないでしょうか。
 「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。当時の教会の実際問題も視野にあったかもしれませんが、パウロが言いたいことは、いつも後半なのです。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。
 酒に酔うことがなかったとしても、「霊に満たされる」ことを知らなければ何にもなりません。あなたは霊に満たされて歩んでいるか、そこに気を配れと言うのです。しかし、「霊に満たされて」と聞くと、とたんに分かりにくいと思ってしまう。すると、パウロがここで言うことも分かりません。「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」と聞いても、「どうして、いつも感謝できるのか」と思う。実は、密かに思っているのです、「そんなこと、むりだろう」と。
 「霊に満たされて」とは、パウロがよく使う表現で言えば、「肉に従う」のでなく、「霊に従う」ことです。すでに主は聖霊によって私たちの内におられますし、私たちの間に神の国はある、と主は言われました。しかし、天と地がつながって重なっているという現実が、理解しにくいのでしょう。
 一つのたとえですが、OHPシートのように、何枚かの透明なシートに文字や絵を書いて、それを重ね合わせてスクリーンに一つの映像を写すことに似ています。「肉に従う」というのは、この世の法則や価値観だけで全てを見る生き方です。「この世」という1枚の層、平面しかないのです。しかし「霊による」別の層があります。私たちは、主の霊に示されて自分の内の霊の層に映ったものを、信仰の目で見ているはずです。それを理性・知性で解釈して、主の御言葉と照らして新しい現実を見るのです。
 見えるものは過ぎ去ります。私たちは地に属しているのでなく、天に属する者なのですから、主の御言葉に従って、生きる次元を変えるのです。地べたをはいつくばるだけでなく、垂直次元で、天と地を行き来する。これが分かると、どこでも感謝と喜びと楽しみが分かり、歌となります。旧約の詩人も語っているように、感謝をささげることは楽しいのです(詩92編)。
 「幸いなるかな」で始まる詩編は、人生の闇も苦難も惨めさも、何もかもさらけ出しています。ダビデ王も、あらいざらい主の前に申し述べています。しかし最後は、「主を賛美せよ、ハレルヤ」。何もかも主の前にさらせば賛美が出てくる。あらゆる地上の問題は、すでに天においては処理済み、解決済だと分かるからです。私はすでに天の祝福で満たされている、あとは自分の人生の中で現れてくると分かる。だから、忍耐と希望と楽しみが一つになるのです。
 
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ