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今週の説教

体に必要なもの

説教要旨(2月10日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 2:14-16
伝道師 新佐依子

 私たちの信仰には、体でしか分からないものがあります。そのために、聖餐というものがあるのです。何のためにわざわざパンとぶどう酒を用意して、礼拝の中で実際に食べるのかといえば、それは体でしか分からないからです。
 私たちはカトリック教会のように、あのパンとぶどう酒がイエス様の肉と血そのものだとは考えていませんが、しかし、イエス様が十字架におかかりになる前の晩、パンとぶどう酒を実際に手に取って、「《これ》は私の体だ」「《これ》は私の血だ」とおっしゃったということは、忘れてはならないことだと思います。私たちは聖餐式において《そのパン》と《そのぶどう酒》を《この体》で食べるとき、聖霊によって、私たちの体とイエス様の体が本当に「触れ合う」という体験をするのです。
 イエス様の体は、私たちの痛みや苦しみが分からないような体ではありません。イエス様は私たちと同じ体をもって世に来られました。当時の人たちは、自分の目でイエス様の姿を見、自分の耳でイエス様の声を聞きました。同じ体をもって毎日を生きる者同士として、一緒にお喋りをしたり一緒に食事をしたりしました。そうやって私たちと一緒に過ごし、私たちが慣れ親しんだその体でもって、イエス様は十字架にかかられました。私たちと同じように生活し、私たちと親しく交わりを持たれたその体で、イエス様はののしられ、裸にされて鞭打たれ、十字架につけられ、「わが神、なぜ私を見捨てたか」と叫んで死なれたのです。
 死というのは、私たちをあらゆるものから引き離します。愛する人たち、大切なもの、そのすべてから断絶されるのが「死」です。関係の中で生きるものとして造られている私たちにとって、あらゆるものとの関係が絶たれる死は、まさに「死」です。
 イエス様の体は、この死を体験された体です。しかも、神様からも断絶されるという、私たちには想像することもできない、真の死を死なれた体です。そしてその死から、イエス様は体をもって復活されました。私たちに与えられている聖霊は、このイエス様の霊です。私たちはこの聖霊によって、イエス様の復活の体と触れ合うのです。
 イエス様の霊が与えられている私たちの体は、いつもイエス様の復活の体との交わりの中にあります。ですから、私たちがこの体に痛みを覚えたら、それはイエス様の体にも痛みにもなります。私たちがこの体で生きる生活で困難を覚えたら、それはイエス様の体の困難にもなります。イエス様の体は私たちの痛みや苦しみを知らない体ではありません。私たちと同じように生き、真の死を死に、そこから復活された体です。私たちの体が痛めば、イエス様の体も痛いのです。そしてイエス様の体が痛めば、それは、同じようにあの聖餐のパンとぶどう酒を食べているみんなの体にも痛みとして覚えられるのです。
 だから私たちは、困難の中にある兄弟姉妹たちの手助けをするのです。それによって少しでも困難が軽減されれば、イエス様の体が元気になるからです。私たちは皆、最終的に何を目指しているかといえば、キリストにおいて一人の新しい人に造り上げられることです。イエス様の体の完成こそが、私たちの救いの完成です。ですから、大事なのはイエス様の体が元気になって成長し、完成に向かうことなのです。
 ヤコブ書は「体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役にも立たない」と言っていますが、これは人道的な助け合いのことを言っているのではありません。私たちの体に必要なものは、イエス様の体に必要なものです。兄弟姉妹が助け合うことで困難が緩和されるのであれば、助けた方も助けられた方も、共に「イエス様の体が元気になった」という喜びに与ることができます。だから私たちは共に助け合うのです。
 イエス様の体の完成が私たちの完成です。そのことを覚え、この世の日々を共に助け合って生きていきたいと思います。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ