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地上に敵無し

説教要旨(10月28日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 6:10-13
牧師 藤盛勇紀

 最後の勧めとなりましたが、なぜ最後に「悪魔」との戦いのことなのでしょうか。パウロが語っていることは徹頭徹尾、いつでもどこでも「主にあって」の一事に尽きます。「主にある」こと、「主に結ばれている」こと、それこそ力であり強さなのです。
 私たちがそのように主に結ばれて、主のものとして主の命を生きている。そこを最後のターゲットとして攻撃してくる者、それが悪魔なのです。悪魔の目的は、《私たちを主から引き離すこと》です。私たちが主から離れてしまえば、あとは自滅の道のみ。だから悪魔は、手を変え品を変え、姿を変え声を変え、あらゆる機会を用いて私たちにすり寄って来て、おどしたりすかしたり、誉めたりけなしたりします。それらはすべて、私たちを主から引き離すためです。
 だから、私たちの敵である悪魔は「血肉ではない」つまり「人間ではない」のです。人間は、悪魔から狙われているものです。とくに、悪魔が全力で狙う相手は「主に結ばれている者」。主のものとして、真の命を生きている者です。悪魔は霊的な存在なので、人間よりもはるかによく神を知っています。イエス様が悪霊を追い出された時も、悪霊はイエス様に対して、「お前が何者なのかは、分かっている」と叫びました。
 悪魔は、自分の運命を知っているのです。それは、火の池に投げ込まれる「第二の死」、最終的な滅びです。これが決定されている。だから悪魔は、永遠の命を約束された者たちに対して、激しい妬みを燃やしているのです。悪魔は滅びに運命づけられている。なのにキリスト者は、滅ぶべき体をまとっていながら、霊的に新しく生まれて主の命を生きている。これが我慢ならないのです。
 悪魔は嫉妬を燃やす、妬みの権化のようなものです。それで、私たちの内にある真実を、つまり私たちが主のものとされ主の命を生きていることを疑わせ、あるいはもっと他に善いものや真実なものがあるかのように思わせるのです。時には、「お前は神の恵みに相応しい者なのか」「自分は神の子だなどと、よく言えるな。こんな罪を犯しているだろう、こんな汚いところがあるだろう」とささやくのです。その悪魔の声が、時に自分の声のように思えてくることがあります。そして、「私は自らの罪の裁きを受けなければならないのではないか」と沈み、あのイエス様の十字架は何だったのか、あの尊い血潮は何のためだったのかを、忘れてしまうのです。
 ジョン・バニヤンの『天路歴程』に、主人公の「クリスチャン」が、アポルオンという悪魔と戦う場面があります。アポルオンは彼の数々の罪や失敗を暴露します。クリスチャンは悪魔の訴えに答えます、「みんなそのとおりだ」。「しかし、私の主は慈悲深く、すぐお赦しになるのだ」。
 キリスト者はまさにこの「赦し」の内容を知っているのです。私たちの主は、私たち罪人と同じ人間となって、私たちが受けるべき訴え、私たちが受けるべき裁きを、ご自分で受けてしまわれ、ご自分の命を、滅ぶべき私たちに与えてくださったのです。それは、私たちが罪人であった時。調子に乗って神を侮っていた時、その罪の只中で、主はすでに赦してくださっていたのです。神の恵みによって、私たちは「神の子」とされ、「光の子」とされている。この事実が、「暗闇の世界の支配者」にとっては、まぶし過ぎ、羨まし過ぎるのです。
 だから、私たちが悪魔に対抗する力は、主の御力とその恵みであって、ただ恵みによって生きることこそ、神の武具を身に纏った完全武装の姿なのです。
 この主の愛と慈しみによる、救いの恵みこそ、それが「主の」恵みであるからこそ、どんな力にも、どんな支配にも、どんな権勢にも、決して負けません。主イエスによって示された神の愛、これによってしっかり立て! とパウロは言うのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ