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結婚のミステリー

説教要旨(10月7日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 5:29-33
牧師 藤盛勇紀

 「わが身を憎んだ者は一人もおらず、…わが身を養い、いたわるもの」。誰でも自分の体の具合については気になりますし、気を遣い、気を付けます。パウロはそこで言うのです、キリストは私たち教会にそのようになさったのだと。そして、「わたしたちは、キリストの体の一部」(30)だと言って、創世記第2章の言葉を引用します。「それゆえ」との言葉から始まる部分を引いていますが、「それゆえに(このようなわけで)」とは、神の御心を根拠にしていることを表しています。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」、これは神の御心を根拠にして言うのだ、ということです。
 人間は誰にでも必ず父と母がいますが、最初の人アダムとエバには父母はいません。神が彼らを直接創造なさったからです。そして、女(エバ)は人(アダム)の脇腹から造られたと創世記は語ります。つまり、アダムとエバはもともと、神のかたちとして「一体」だったのです。夫婦の関係は、あらゆる人間関係の根本をなす関係ですが、それは神の御心を表すかたちであって、神ご自身の交わりの豊かさを映し出します。だから「神秘」(奥義)、ミステリーなのです。
 「わたしは、キリストと教会について述べているのです」とパウロは明言します。キリストがいかに教会を愛しておられるか。どこまで行っても、私たちに対するキリストの愛と、それをいただく恵みです。キリストの愛こそ、偉大な奥義です。
 「私たちは、キリストの体の一部」と言い、「二人は一体となる(一つの体となる)」と言います。どちらにも「体」とありますが、別の言葉です。前者の「体」は、手足があり目鼻があり、それぞれバランスと統一性を持った一つの体です。後者の「体」は、「肉」。生身の人間です。
 ヨハネ福音書は、「(神である)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)と言います。神であるキリストが、私たちと同じ肉を持った一人の生身の人間となられたと言うのです。いわゆる「受肉」です。
 神が、肉を持った人となられた。これこそ神秘です。肉をもって生き、肉において罪を犯す私たちのその罪を、体をもって担い、裁かれて血を流して死ぬために、神は肉をとられました。そして、私たちを御自分と結びつけ、神ご自身の霊を注いで、命に与るものとされました。そこまで神は、私たちと一体となってしまわれるのです。
 日本基督教団成立以前の旧日本基督教会の信仰の告白は、「我等らが神と崇むる主イエス・キリストは神の独子にして」と始まり、「凡(おおよ)そ信仰に由りて之と一体となれるものは赦されて義とせらる」と告白します。「信仰によって、キリストと一体となる」、これが信仰であり救いです。これは神秘、霊的なリアリティーですから、ただ信仰によってそれに与ります。パウロが語っていることはいつでも、ただ信仰のみ、恵みのみ、キリストのみです。
 私たちの救いは、この「キリストと一体となる」ことに尽きます。私たちはキリストのもの、生きておられるキリストが私を生きてくださる、だから私もキリストを生きる。主イエス・キリストと私は一体。
 キリストと私たちとの関係は、最終的に、天地が改まる時、「新しいエルサレム(神の民)が、夫のために着飾った花嫁のように、神のもとを離れ、天から下って来る」と黙示録は語ります。この「新しいエルサレム」は「小羊(キリスト)の花嫁」であり、キリストと結婚して一つとなります。そして、もはやそこには神殿もありません。神が人と共に住まわれるからです。
 私たちはこの地上を歩みながら、天上のヴィジョンを重ね合わせて見ます。花嫁が喜んで花婿を見つめるように、私たちはキリストを見つめます。人は自分が見ているものに似てきます。その人が見ているものが、その人を通して現されてくるのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ