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波打つ大地に立つ

説教要旨(3月31日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 2:17-29
牧師 藤盛勇紀

 パウロは正面からユダヤ人に向かい、厳しく批判します。あなたには確かに優れた点があるが、それは上辺だけではないか。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく」、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人」なのだと。パウロ自身正真正銘のユダヤ人です。しかも「非のうちどころのない者」と自分で言い切ってしまえる人でした。しかしそんな誇りは、今や「塵あくた」だ、ユダヤ人の本質ではないと言います。では、真のユダヤ人とは何なのか。
 人生も教会も船にたとえられますが、大海原のただ中で自分の位置を確かめ、行くべき方向を定めるために必要なものは羅針盤(コンパス)です。陸地は頼りになりません。大地も大きく揺れ動きます。『波打つ土地』という小説がありますが、懐かしい土地も全く様変わりします。この富士町教会の正面は江戸城外郭門の牛込見附。しかし今や石垣が残るのみ。教会も移転しました。それでも教会というのはコンパスのように、いつでもどこでも決して変わることのない一点、上なるお方を指し示すのです。
 ユダヤ人は、この世界が波打つ場だということを思い知らされながら生きた民です。波打ち変化する世界の中で、ただ「神との関係」に生きてきました。しかしパウロは、そのユダヤ人らしさをユダヤ人自身が失っていることを批判します。コンパスのように上の一点との繋がりによって生きるものだったのに、コンパスを「持っている」こと自体を誇りとしてしまい、肝心な「上との繋がり」を見失い、外見だけとなったと。
 「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人」だとは、どういうことでしょうか。本当の「内面」とは、「心では信じています」などといった内面ではありません。私たちの内側の真実は、何も誇るものがない、何も確かなものはない、「何もない」。方向も分からず海を漂い、いずれは沈み行く者。だから、命綱につながれて《上から支えられるしかない》のです。
 「内面のユダヤ人」は、ただ《上から来るもの》《上から与えられるもの》を求めます。「その誉れは人からではなく、神から来るのです」(29)。私たちは「無に等しい者」。自分の内を見ても何もない。だから、「どうすればよいのか」と言うしかないのです。
 パウロは7章で自分の内面を赤裸々に語り、こう言います。「私は何と惨めな人間なのだろう」「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。ならば、どうすればよいのか。
 しかしそこに、外から来る言葉があるのです。私たちの主がおられるからです。教会の誕生とも言えるあの聖霊降臨の日、イエスの弟子たちは皆突然立ち上がり神の言葉を語り出しました。それを見たユダヤ人たちはびっくり仰天しましたが、彼らが語り始めた神の言葉を聞いて心を打たれたユダヤ人たちは何と言ったか。「わたしたちはどうしたらよいのですか!」です。
 そこに、外から来る言葉、福音がある。それを弟子たちは告げたのです、そして勧めました、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。洗礼は、キリストと一つとされることです。私たちは死んで、キリストの命が私を生きてくださるのです。
 ある人が、「人間だけが旅人になる」と言いました。人間は自然の上でなく、危うい自由の上に生きる。だから人間だけが、どう生きればよいのかと迷い、「私はどこにいるのか」「どこに向かっているのか」「私は誰か、人間とは何か」と問い続け、「上」をまさぐるのです。その意味で全ての人間はユダヤ人的です。だから、ユダヤ人とその歴史を見続けなければいけないのです。
 私たちは「内面におけるユダヤ人」です。内面を誇って言うのではありません。上なるお方とその方から与えられるものによって生きる、すなわちキリストに現された完全な赦しと愛と命によって生きるからです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ