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神の武具をまとう

説教要旨(12月2日 朝礼拝より)
エフェソの信徒への手紙 6:14-17
牧師 藤盛勇紀

 パウロは、私たちの戦いの相手は「血肉(人間)」ではなく、天的な見えざる「諸霊」、悪霊、悪魔なのだから、神の武具を身に着けよと勧めます。
 まず、「立って、真理を帯として腰に締め」。当時の服はワンピース。帯を締めなければしっかり立てません。この帯は「真理」。信仰によって知った神の真実。いつでもどこでも、誰にとっても変わらず、命の基盤となる、救いの内容です。
 「正義を胸当てとし」。悪魔はいつの間にか私たちの胸(心)に侵入し、私たちがいかに不義な者であるかを思い知らせようとします。しかし、《義》を胸当てとせよ! この義は、人間の持つ義ではありません。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5:21)。キリストに結ばれたことによる義です。「義」という字は、「羊」の下に「我」。犠牲の小羊の血によって私は神から義とされている。この救いの事実を「胸当て」にすれば、悪魔のささやきに突っ込まれることはありません。
 次に「平和の福音を告げる備え」という「履物」を履きます。イザヤ52:7は神の救い、福音を告げ広める足の美しさを語ります。神があなたをお用いになる時、それに応える用意、信仰的フットワークです。
 「なおその上に、信仰を盾として取れ!」戦いは攻めと守り、攻撃は最大の防御。積極面も必要です。信仰は見えない事実の確証。見えないものを見る信仰以上に確かなことはありません。「火の矢」は雨あられとやって来ます。悪魔のささやき、誹謗、中傷、恐れ、疑い。それが私たちの心の中で膨らんで、悪魔に足場を与えてしまう。それは結局、私たちの不信仰なのです。「恐れるな、思い悩むな、思い煩うな」と、何度主は言われたでしょうか。「空の鳥を見よ、野の花を見よ。神はこれほどに装ってくださっているではないか。あなたがたにはなおさらなのだ、信仰の薄い者たちよ」。この方こそ私たちの道、真理、命です。
 そして、「救いを兜としてかぶれ」。兜は最も大切な頭を守ります。様々な武装も、結局その全ては「救い」に与ることです。《神が》私を救ってくださった、それが全て、それが力です。私たちは自分で自分を救うことはできません。であるならば、私たちは絶対に負けません。救いは、神がなさったことだからです。
 最後に「霊の剣、すなわち神の言葉」。神は、どのように私たちに働いてくださり、救いに与らせてくださるのでしょうか? 神は常に人を用い、人を通して働かれますが、それは聖霊によります。私に伝えられたキリストの恵みを、私のこととして受け取らせてくださるのは聖霊です。
 キリストの言葉とキリストの救いの出来事を伝える御言葉に聖霊が働かれるのです。だから、《御霊の剣は神の言葉》です。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、主イエスも聖書の御言葉によって悪魔に対抗されました。人が生きるとき、パンよりも大事なもの、それほどに人を生かすは、全てを存在させた神の言葉です。
 神の言葉が語られるとき、聖霊が働かれます。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」(ヨハネ3:34)。これはイエス様のことですが、神の言そのものである主が語られた時でさえ、「神が“霊”を限りなくお与えになる」というのですから、私たちの場合はなおさら、神の言葉に聖霊が働いて、力とされるのです。
 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ4:12)。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ