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私たちの主、イエス

説教要旨(11月18日 CSとの合同礼拝より)
ルカによる福音書 5:1-11
牧師 藤盛勇紀

 イエス様は群衆への話を終えると、シモンに言われます、「沖にこぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。漁はとっくに終わっています。しかも漁師たちは夜通し漁をしたのに収穫ゼロ。もう網も洗ったし、早く家に帰って眠りたい。しかしシモンは、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。心の中では納得していなかった、それでも主が言われるからとやってみると、これまで経験したことのない大漁。シモンは思わず、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」とひれ伏して叫びます。一緒にいた者も、皆驚き恐れました。
 ペトロは「俺のような人間は主に近づいちゃいけない」と恐れましたが、主は、「あなたはこれから私と一緒に人間の魂を神に導く者となるのだ」と招かれるのです。思いもしなかった新しい道が開かれました。誰でも「もう無理だ」「どうせダメだ」と思うことがあります。疲れたし、また失敗するのも見えている、一歩踏み出すのが怖い。しかし主は、「恐れるな」と何百回も言われます。恐れるな!思い悩むな!雄々しくあれ!私はあなたといつまでも共にいるから!
 イエス様のことを「先生」と呼んでいたシモンは、「主よ!」と叫びます。「主」は、私たちがいつでもどこでも、どんな時にも、一緒にいてくださって、いつでもどこでもどんな時でも、この方に聞いて、信じて従ってよい、そういうお方です。私たちに力を与え、知恵を与え、励ましを与え、命そのものを与えるお方です。
 だから信頼してよいのです。信頼して、恐れずに近づいてよいのです。自分には力がなく知恵もない、だから恐れてしまう。それでも、主が言われるなら、前に進んでよいのです。御言葉に従って一歩踏み出してみたら、思いもしなかったことを経験させられる。聖書にはそうした証しが満ちています。見える現実は無理だ、不可能だと思わせるし、人もそう言う。しかし見えない神の真実は「あなたが信じて一歩踏み出せば、私が道を拓く!」と言われるのです。
 幼な子は何の恐れもなく「パパ-!ママー!」と親の胸に飛び込みます。信じている者は、飛び出せるのです。からし種一粒の信仰があれば、畏れの山も動くのです。
 主は言われた、「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」。あなたが、罪深い者でも、シモンのようなお調子者でも、心の中で疑っていた者でも、主は、「そんなあなたのために、私は来たのだ。そんなあなたが神と共に、神の命を生きるために来た。そのために私は、あなたの罪を負って、命を差し出すのだ」と言われます。イエス様はそのために十字架について下さったのです。
 このお方を主と信じて近づくなら、「お言葉ですから」と、信じて踏み出せば、そこには主ご自身が私たちのために拓いてくださる道があります。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ