ホーム | 説教 | 説教(2018年度) | ここから見れば

ここから見れば

説教要旨(11月11日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 16:13-16
伝道師 山下瑞音

 イエス様の問いと弟子たちの答えは、当時からイエス様に対して様々な意見がことを思わせます。しかし実はここで弟子たちが言っているイエス様への評価は、全体のごく一部です。例えばルカ伝の7章34節ではイエス様を「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」という風に言う人が出てきます。またマタイ伝の9章にはイエス様を神の冒涜者、悪霊の仲間だと言う人が登場します。こうやって見ると、イエス様への評判は決して良いものだけではなく、いろんな意見や評価があったことか分かってきます。
 その中で、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と仰るのですが、ここでイエス様が訊ねておられるのは、単純に私たちがイエス様を好きか否かというような次元のことではありません。ここでイエス様が問うておられるのは、イエス様のことよりもむしろ私たちのこと、つまり「私たちは一体何者なのか」ということなのです。イエス様をどう見るかということは、その人がどこに立っているかということと直結しています。それはどこに立つかによって、イエスと言う人の見え方は全く変わってくるからです。そうやって考えてみると、このイエス様の問いかけは、突き詰めてゆくと「あなたはどこに立っているのか」ということ、さらに「「あなたはいったい誰なのか」ということを問うておられることが分かってきます。
 では、私たちはどこに立って、イエス様をどのように見るのでしょうか。これこそが、「あなたはメシア、生ける神の子ですという答えです。なぜなら、私たちはクリスチャンだからです。クリスチャンという言葉は、元々は「キリスト主義者」というキリスト教徒への蔑称でした。つまり、非難するニュアンスが、クリスチャンという言葉にはあったのです。
 しかし、キリスト教徒はあえて自分たちのことをクリスチャンと呼ぶようになりました。それは、確かに自分たちはキリストに希望を置き、キリストに救われたと信じているのだということをしっかりと自覚し始めたからです。そして私たちがクリスチャンとしてここに立っているのだということが分かれば、イエス様だけではなくてこの世界全体の見え方も変わってくるはずです。
 先週は逝去者記念礼拝だった。礼拝の後、記念会に出席してみて思うのは、私たちの教会は今まで本当にたくさんの兄弟姉妹を見送ってきたということです。私たちの教会には、いつも親しい人を見送ったばかりの人の姿があります。しかしその中あってなお、私が葬儀のたびにいつも感じることは、教会の葬儀はただ悲しむだけではなくて、その先に希望があるということなのです。たとえ会えなくなったとしても、肉体は燃やされて亡くなってしまったとしても、私たちは終わりではない。私たちはまた会うことが出来る。そう確信することが出来るのは、私たちがクリスチャンとしてイエス様の姿を見て、「イエス様こそ神の子です」ということが出来るからです。
 そしてここから見れば、あらゆるものの見え方が変わってくるのです。死は終わりではないということ。私たちには新しい命が待っているのだということ。そしてそれはあの十字架によって約束されているのだということ。それが、ここから見える景色なのです。
 イエス様は私たちに問われます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。そして私たちが自分はいったい何者なのか、何を喜びとして、どんなことに希望を置くのかということを考えるときに、答えるべき答えはただ一つです。すなわちそれが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という答えであるということ、この大きな恵みに感謝しつつお祈りしたいと思います。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ