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福音を恥じず

説教要旨(2月24日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 1:16-17
牧師 藤盛勇紀

 「わたしは福音を恥としない」と、パウロはいきなり宣言するように言います。喜ばしい知らせである「福音」を、なぜ「恥としない」などと言うのでしょうか。
 ある時イエス様は、「私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るとき、その者を恥じる」と言われました。これは、イエス様ご自身がやがて宗教的指導者たちから排斥されて殺され、三日目に復活するという、十字架の死と復活を弟子たちに予告された時に言われた言葉です。弟子のペトロはそれを聞いたとき、「とんでもない、あってはならない」とイエス様をいさめ始め、それでイエス様から「サタン、引き下がれ」とお叱りを受けたほどでした。それほどに、十字架の死など、あってはならないこと、愚かしかし恥ずかしいことだったのです。
 しかし、イエス様は人々から邪魔者にされ、用無しとして捨てられ、役立たずと罵られ、呪われた者として忌み嫌われ、嘲られ、つばを吐きかけられて、十字架につけられました。いったい誰がこんな人を神の子、救い主だなどと思うでしょうか。
 預言者イザヤは言いました。「私たちの聞いたことを、誰が信じえようか」、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」と(53章)。
 この見る影もない、みすぼらしい救い主キリストを人間は恥じます。私たちのために低く降られ、最も惨めな者となられた神を恥じる。そして殺すのです。
 神を恥じるこの人間のあり方に対して、パウロは真っ向から立ち上がり、「私は、福音を恥じない!」と宣言します。パウロはここで、神を恥じる人間を恥じているのではなく、「福音」を伝えたいのです。
 神を恥じるような人間に対し、神が「お前など関係ない。私の子ではない」と言われたとしても仕方ありません。ところが神は、そんな人間を恥となさらず、手放されない。神は、恥知らずで恩知らずな人間を捨てるどころか、子としてくださる。この福音を聞いているから、パウロも、決して福音を恥としない、と言うのです。
 これはパウロの態度決定ですが、全ての人間が取るべき態度であり、立場であり、方向なのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。福音が人生に力を与え、土台を据え、柱となり、方向を与えます。人生に「決め」を与えるのです。
 いま私たちの周りには、無数の情報が飛び交い、無数の事実が伝えられ、様々な価値観が説かれ、新しいものがどんどん出てきています。しかし、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)とあるように、キリストこそ、古いものの終わりであり、新しいものの開始なのです。だから、私たちが聞くべき言葉は、十字架の言葉、キリストの言葉、福音なのです。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。
 私たちはパウロと一緒に言います、「福音を恥じとしない!」。「神は私を恥となさらず、御子はこの私のために尊い血を流してくださった。そのようにこの私を尊いもの、宝としてくださった」、だから、私もキリストを、神を、福音を、恥じない。
 いずれ私たちは皆、主とお会いします。だから世の人々に伝えるのです。誰もが新しい情報に飢えています。何によって生きるの、何が大事なのだろうか、何に聞けばよいのか。人は「最新情報」に弱い。しかし、本当に新しいもの、聞くべきものは、キリストとその福音なのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ