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我、ここに立つ

説教要旨(1月20日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 1:1-7
牧師 藤盛勇紀

 この手紙の著者パウロは、自分自身の名前を一番最初に記します。当時の手紙の形式なのですが、おそらくパウロは意識して名前を記しています。群衆のなかに埋もれていた人が、誰かから突然名前を呼ばれて立ち上がるように、ここでパウロは、「呼び出されて立ち上がった者」としてここに名を記し、ここに立っているのです。そして、パウロはこの手紙を読む者たちにも呼びかけています。この手紙を読む者は、《自分もパウロのように、呼び出され立ち上がる者》になって行きます。
 「呼び出される」というのは緊張しますし、良い気がしません。「呼び出しをくらう」と言うように、《積極的に立ち上がる》というより、逆に《立つ瀬がない》という経験の方が多いのでしょう。国会の証人喚問や参考人招致など、地位も勢いもある大物が顔色を失い自信無さげな姿を晒すのは、立場が危うくなるからです。
 ローマ教皇から破門された宗教改革者のルターは、ヴォルムスの国会に召喚されます。皇帝や諸侯の前に独り立たされたルターは孤立無援です。しかしルターは、確信をもって「我ここに立つ」と言ったのは有名です。「ここ」とはどこでしょうか?
 パウロもルターも《独り》立ちました。しかし彼らの立った所は、英雄が立つような高い場所だったのではありません。パウロは最初に「パウロ」と自分の名を記しましたが、その次の言葉は「奴隷」という言葉です。原語の語順から言えば、「パウロ、奴隷、キリスト・イエスの」となります。パウロは独り立ち上がっているけれども「奴隷」なのだと。この《不思議な場所》に、あのルターも立ちましたし、私たちもこの不思議な場所に招かれているのです。ここに立たなければ、この私が本当の私にならない、そんな不思議な場所なのです。
 哲学者のニーチェは、キリスト教は「奴隷の宗教」だと言いました。「奴隷の宗教だ」などと言われると、思わずグラッと来そうです。しかしパウロは堂々と、「奴隷のパウロ」と最初に記します。
 パウロもルターも、独り立たされる時、自分で選んだわけでない所に立っていますが、自分の力でそこに立っているのではないのです。しかし、何によって、何のためにそこに立っているのかが明確です。パウロは、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と言います。つまり、パウロは神によって召し出され、神によって捕らえられ、そこに立っているのです。
 そのように、パウロを選び出し、召した神がおられる。このお方から捕まえられている。この事実なしには、パウロにしてもルターにしても、本当に立つ場を持てなかったのです。
 《神からの召し出し》は、パウロが特別優れた人間だったとか、傑出した人物だったから与えられたのではありません。パウロは、「召されて使徒となったパウロから」と言い、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と呼びかけます。神に愛され召されているのは、まだ見ていないローマの信徒たち、会ったこともない、主にある全ての兄弟姉妹たちがそうだというのです。
 この手紙の本当の著者は、パウロを呼び出し、彼を手に取って用いている神です。神がパウロをご自身のペンとして用いておられる。パウロは自分を「土の器」だとも言いましたが、神はもろい土の器をも、み言葉と恵みを盛る器としてお用いになることがおできになります。この神の手に取られた者を「聖なる者」というのです。欠けや破れのない完璧な者ではありません。ただ恵みによって神のものとして取られた者。その恵みから、パウロは私たちに呼びかけています。パウロを用いて神ご自身が私たちを招いておられます。ローマの信徒への手紙は、そのような神の手紙なのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ