勝ち戦

説教要旨(8月26日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 6:1-10
伝道師 山下瑞音

 今日の聖書個所でパウロが言おうとしていることは、私たちクリスチャンは誰よりも積極的に幸せをつかみに行くことが出来るのだということです。そもそも、幸せとは一体何だろうか。私たちは何があれば幸せになれるのだろうか。普通、幸せとは豊かな生活、恵まれた人間関係あるいは体の健康などのことを意味します。しかし、豊かさも人間関係もあるいは健康も、よく考えてみれば、私たちが置かれた環境にたまたまあったものです。たまたまそこにあったものを幸せとするのは、偶然に頼る消極的な生き方ではないでしょうか。
 これに対してパウロの言っている生き方は、とても積極的な生き方です。4節から7節の言葉は、実は自己犠牲を払いなさいと言うことを言っているのではありません。パウロはむしろ、クリスチャンにとって置かれた状況は全く関係ないのだということです。原文のギリシャ語ではこの4節から8節は一つの文章になっている。そしてここでは、普通は悪いことと思われるようなことも、あるいはその逆に良いと思われるようなことも、すべてが私たちのためになるということを言っているのです。その上の次元で、私たちは本当の幸福を手に入れるのだということを示しています。
 そして本当の幸福とは、自分自身のことを深く知るところから始まります。4節に書かれている「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示している」という言葉は、原文では「いつでも私たちは自分自身をクリスチャンとして自信をもって推薦することが出来る」という意味です。私たちはどんな状況に陥っても、すべてを自分のために使い尽くして、いつでもクリスチャンとして胸を張って生きてゆくことが出来るということです。
 これこそ、私たちの本当の幸福です。そしてその積極的な生き方があってこそ、私たちは状況に左右されない本当の幸せを手に入れることが出来るのです。本当の幸せとは、何かがあるから幸せだとか、逆に何かがないから不幸せだというようなものではありません。本当の幸せとは、自分らしく生きることです。そして私たちはそれを自分はクリスチャンであるという誇りと自信によって手に入れてゆきます。世間の理不尽や不幸に直面した時に、私たちは祈りと信仰で真っ向から立ち向かって、それに勝利することが出来るのです。
 私たちは自分の生き方について、あるいは自分の幸福について、余計な雑音を気にせず純粋に神様と自分自身のことだけにエネルギーを使って生きてゆくことが出来ます。そして私たちが、自分はどう生きるべきかということを知るとき、私たちの人生は必ず幸福に向かって良い方向へと変わってゆくはずです。たとえ希望がなくても、そこで絶望して終わるのではなくて、神様が必ず私たちに報いてくださることを信じて、次のステップへと進んでゆくことが出来るのです。
 だから、今日の聖書個所は、「今や、恵みの時。今こそ、救いの日」だと言っています。私たちは与えられているこの一日一日を、ここから素晴らしい出来事が起こる日として生きてゆくことが出来るのです。今日の聖書個所の一番初めの部分で、神からいただいた恵みを無駄にしてはならないと言われているのはまさにこのことです。私たちは神様から恵みを頂いている以上、私たちの人生をより良いものとして幸せに生きる義務があります。そしてその始まりが、恵みの時であり、救いの日である今この時に他ならないのです。
 
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ