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主である私が語り、行う

説教要旨(12月30日 朝礼拝より)
ヤコブの手紙 2:5-13
伝道師 新佐依子

 今日のヤコブ書の箇所では、差別の問題が取り上げられていました。差別の問題については、社会の問題だとか思想の問題だとかいろいろ言われますが、根本的には罪の問題です。人間というのはいつの時代にあっても、「人を貶めたい」「人より優れたものでありたい」という欲求を、本質的な闇の内に秘めているものなのです。そんな私たちに対してヤコブ書は大変厳しいことを言っています。「人を分け隔てするなら、あなたたちはすべての点で有罪です。」
 しかしヤコブ書は、「だからあなたたちはもう駄目です」と言っているのではありません。「『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました」(11節)とあるように、「そのように言われた方に目を向けなさい」と忠告しているのです。
 12節では「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と言われています。「いずれは」というのは「終わりの日には」ということです。その日には、私たちはひとりひとり神様の御前に立ち、裁きを受けるということが、聖書では言われています。例えばこんな御言葉があります。「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります(1コリント4:5)」。
 「闇の中に隠されている秘密が明るみに出される」これは、私たちの人生において起こったあらゆる出来事の意味が、すべて明らかにされるということです。「なぜ」と問わずにいられなかったことの意味も、全部明らかにされるのです。しかしそれは「私たちの心の企ても明らかにされる」時であるといいます。私たちが心の内に隠していた思い、たとえば人を貶めたいとか、人より優れていたいとか、そんな汚い思いも含めて、私たちの心の中のものも全部明らかにされるのです。そうして神様の思いも私たちの思いもすべてが明らかにされた上で、御国での命か完全な滅びかに定められる、それが「裁かれる」ということです。それはとても怖いことのように思えますが、そうではありません。聖書は、そのとき私たちは神様から「おほめにあずかる」と言うのです。心の奥深いところに「人を貶めたい」「人より優れていたい」などという思いを隠し持っている私たちが、その思いを明らかにされたとき、なぜ神様からほめていただけるというのでしょう。
 それは、イエス様が私たちの命を生きてくださっているからです。イエス様に結ばれて神の子とされた私たちに神様が与えてくださるものは、必ず「良い物」です(マタイ7:11)。たとえ今は「なぜ」と問わずにいられないことも、終わりの日にはそれが自分に必要なことであったことが分かります。たとえ今汚い思いを抱いてしまっても、終わりの日には、それが思わぬところで「良いこと」として用いられていたことが分かります。それは、終わりの日にすべてが明らかにされて、初めて分かるのです。
 子供の頃うっとうしかった親の言葉が、実は愛情たっぷりのものであったことが、自分が大人になってみて初めて分かった、ということがあります。神様も同じです。終わりの日に私たちが神の子として完成されたとき、私たちは初めて、自分の人生がどれほど神様の愛に満ち溢れたものであったかが分かります。そのとき、私たちはこの世では味わったことのない無上の喜びに溢れることになります。ヤコブ書が「いずれは裁かれる者として語り、振る舞え」と言っているのは、この喜びが約束された者として生きよ、ということなのです。
 私たちの人生が何もかも「良い物」とされるのは、私たちの人生を神の御子イエス様が生きて下さっているからこそです。そうでなければ私たちはすべての点で有罪になる他ありません。「イエス様が語り、行ってくださる。」そのことに信頼して語り、振る舞えとヤコブ書は言っているのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2018年度)

2018.4.1
死の涙の終わり
2018.4.8
見ゆる希望は希望にあらず
2018.4.15
キリストが充ち満ちる
2018.4.22
天に座す我ら
2018.4.29
神の恵みは現れる
2018.5.6
遺残は遠く、今は近い
2018.5.13
神を神として賛美する
2018.5.20
新しい人間の創造
2018.5.27
我らは神の住まい
2018.6.3
知らされた計画
2018.6.10
計り知れない富
2018.6.17
罪人を招くイエス
2018.6.24
とれない弾丸
2018.7.1
大胆に神に近づく
2018.7.8
御言葉を行う
2018.7.15
主の愛を味わう
2018.7.22
主は一人
2018.7.29
一人ひとりへの賜物
2018.8.5
成熟した人とされる
2018.8.12
新しい人を着る
2018.8.19
恵みが響き合う
2018.8.26
勝ち戦
2018.9.2
神の愛に留まる
2018.9.9
尊い神の秩序
2018.9.16
あなたは光の子
2018.9.23
霊による賛歌
2018.9.30
キリストが愛された教会
2018.10.7
結婚のミステリー
2018.10.14
裏切り者をも
2018.10.21
神の親心
2018.10.28
地上に敵無し
2018.11.4
神の国を前方に見て
2018.11.11
ここから見れば
2018.11.18
私たちの主、イエス
2018.11.25
あなた方の間に主の平和
2018.12.2
神の武具をまとう
2018.12.9
絶えず祈れ
2018.12.16
獄中の光
2018.12.23
見よ、救いのしるしを
2018.12.30
主である私が語り、行う
2019.1.6
朽ちない愛の恵み
2019.1.13
ひとつの福音
2019.1.20
我、ここに立つ
2019.1.27
あなた方もここにいる
2019.2.3
はるかな距離を超えて
2019.2.10
体に必要なもの
2019.2.17
福音は神の力
2019.2.24
福音を恥じず
2019.3.3
人間の不義と神の愛
2019.3.10
自由という転落
2019.3.17
終わりから今を見る
2019.3.24
お別れの挨拶
2019.3.31
波打つ大地に立つ